第18回 佳様

「布の記憶」

 Aさんは今ではすっかり死語になっているかも知れない「天職」という言葉が実にふさわしい女性であった。柔和な笑みを絶やすことなく忍耐強くお客に接し仲間を助け後輩を指導する。「背中に目があるの」と驚かれるほど広いフロアの隅々にまで目が届く。長時間の労働に疲れ果てているときでさえ弱音を吐く事はない。短気なお客が後輩を罵倒しているときには自ら進んで一緒に頭を下げる。「あなた自身のストレスはどうやって解消するの」と問うても「私は南国の生まれでさっぱりした気性だから何も残らないの」と笑っている。そんなAさんが定年にはまだ随分と間がある時期に「若い頃からの持病が少し悪くなったので郷里に帰ってのんびりしたい」と退職を申し出たとき、上司以下全員は必死で慰留に努めた。彼女の決心は翻ることなく送別会も固辞して、几帳面に記された分厚い申し送りノートだけを残し皆の前から消えていった。

 半年ほどして私の所に一人の職員がやってきた。「Aさんからお金を借りているのですが、取り立てがきつくこのままでは暮らしていく事ができません。なんとかならないでしょうか」彼女の訴えと私の記憶の中のAさんとはあまりにも違う。しかし、同じような訴えがぽつぽつと他の同僚からも漏れ聞こえてきた。やはり会って話を聞くしかない。確かに彼女は郷里へ帰ることもなく元の住所に一人で暮らしていた。

 久しぶりに会ったAさんは私に語った。「私は終戦の時、沖縄の海岸をたった一人で裸で歩いているところを保護されました。家族も、生まれた場所も名前も歳も判らず、見つかった場所が本籍となり、そこの地名から名前が付けられ見つかった日が誕生日です。歳は外見から適当に判断して決められました。施設を転々とし、その暮らしから抜け出すために必死で勉強し資格を取りました。人の親切を受ける事も多かったのですが裏切られる事も多く、上京して間もなく一円もないところまで落ち込んだとき、これからはお金だけを拠り所に生きようと決めました。それまでの暮らしに比べればたいていの事は我慢してもおつりがきます。誰かに頭を下げたり、疲れを我慢するくらい何の事もありません。貸したお金を取り立てるのは当たり前ですし借りてまで安易にお金を使う人間も許せません。確かに寂しい人生かもしれません。でもそれは仕方がない事だと思っています。私は罰が当たっても仕方のない事をしたのですから。」最後にAさんは一枚の布を見せて言った。「これは私が唯一身につけていた物です。母が私と離れまいと結んでいた布を私は自分だけが助かりたさにほどいて逃げたのです。」元の色さえ判らぬほど汚れた布は細かく花が織り出された紅い手巾(テイサージ)であった。血の色さえも吸い込んでいるような、その色が今も心に焼き付いている。古い布には古い記憶が残っているような気がして織られた糸の一本一本までをも確かめたくなる。そんな記憶を消す事が躊躇われ汚れたままの布も手を掛ける事無く仕舞ったままでいた。

 今、その布達を少しずつ再生して元の形に戻してやる事を始めてみた。もう一度、昔の姿に戻って光を浴びる日々が訪れるように。思い出までもが洗い流される事はないのだから。勿論、そんな思いに答えてくれる悉皆やさんに出会ったからであることは言うまでもない。

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