第15回 Hal様
母が存命だった頃は、いつも「染物屋のおじいさん」と呼んでいた人が、家の着物の相談にのってくれてました。染物屋の看板はあげていましたが、悉皆屋さんの様でもありました。そのおじいさんは、いつも隣の市から昔の黒くて重い自転車に乗ってやっきたものです。母の着物を染め替えて、私の着物になったものや、勿論成人式の着物も、このおじいさんにお願いしたものです。ただ、昔の人でしたので、玄関のチャイムを鳴らすとか、ノックをするという事は思いもよらなかったようで、いつのまにか部屋にいるという事が多かったです。私たちは、苦笑しながら「農家の縁側から上がって来る、感覚が抜けないンだね。」と云ったものです。 ほんの十数年前くらいまでは、在宅中は家に鍵をかけるなどとは、思ってもみなかった頃の話です。
母が入退院を繰り返す頃、そのおじいさんも病を得てか、いつの間にか尋ねて来られなくなりました。代替わりをした後は、その染物屋さんとは縁が切れ、私も着物を着ることが殆どなくなってしまいました。とはいえ、着物が好きなことには代わりがなく、色々な呉服屋さんをたまに覗きに行く事はありました。ただ、自宅の着物メンテナンスの事は、その店で買った着物以外は頼みにくい雰囲気があったのか、他の着物を勧められるのがイヤだったのかはわかりませんが、相談できずにいました。「染物屋のおじさん」の様に、心安く頼む様な気が起きなかったのは確かです。
母の13回忌を迎えようとした頃、父が思い出したように、未仕立ての反物や白生地の処置を聞いてきました。その頃には、呉服屋さんには出入りしなくなっていましたので、ネットで大体の価格を調べてみることにしました。このとき、着物好きの方々のHPにたどり着き、私の眠っていた着物熱が急上昇しました。肝心の調べ物は、ちょいと横に置いておいて、土日は着物で過ごす日々が続きます。私が着物でフラフラと遊びに行く姿を見ても、父は何も言いません。彼も、昔は会社から帰ってくると、着物に着替えてくつろいでいたからでしょう。(以前は、そんな男の人は多かったと思います。)
昨年の夏の日、箪笥の整理をしておりましたら、見慣れぬ白い麻の単が出てきました。はじめは母の物かと思いましたが、それは母が父のために縫った着物でした。そのころ丁度、父と出かける事があり、その着物を着てはどうかと勧めたところ、本人も結構乗り気になったのですが、着物を広げたところ、あちこちに汗染みによる黄変があったため、結局その着物を着て外出することはできず、ちょと悲しい様な寂しい様な気持ちを味わいました。その時「きものおたすけくらぶ」さんが頭に浮かんだのです。ネットで色々と評判は伺っておりましたし、丸富さんも存じ上げておりました。実は、MAILも差し上げて料金表を送って頂いた事もあるのです。ただ、その時は、漠然と会社まで行かないといけないと思っていたので、勤め人の私にはナカナカ大変で、そのままになっておりました。ところが「きものおたすけくらぶ」では宅急便でOKだというのです。これなら、横着で勤め人な私でも大丈夫だと、早速HPからお試しの申し込みをして、父の着物を後日送ってみました。富さんから、「かなり困難なシミです。」とご連絡頂きました。それはそうでしょう。父によれば最後に着たのは、30年ほど前だというのです。「薄くなれば御の字だし、取れなくても仕方ないよねぇ。」と二人で云っておりました。ところが、その後の富さんからのMAILで「多少薄く残るが、着用出来るまでは取る事は出来る。」とのお返事。二人で「凄いねぇ。」と感心しておりました。その感心が驚愕に変ったのは、着物が返送された時の事です。タトウ紙を、ドキドキしながらあけると、着物に染みがないのです。父と二人で、「ここいら辺だったよね。」と云いつつ、光にかざしたり裏から見たりしても、染みの痕がわからないのです。「プロには、痕がわかるのかもしれないけど、素人にはわからん!!凄い!!」と二人で興奮していた事を思い出します。それからは、何かあったら「きものおたすけくらぶ」と肝に銘じております。
私にとって「きものおたすけくらぶ」は、以前の「染物屋のおじいさん」みたいなものになりつつあります。これからも、心安く相談に乗って下さい。そして、私たちがビックリする様な、丸富マジックを炸裂させて下さい。
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